浜田さんへのインタビューを通じて、ぼんやりした独特の作風が、
とっても腑に落ちました。印象深かった箇所を一部抜粋してお届けします。

この独特な作風はどこからきているのか気になります。
なぜこういう部分を選んで切り取ってくるんですか?
写真などを切ってコラージュ作品をつくっていたときは、何が何だかわからない作品だったんですが、
モノがはっきり写っていて、逆に観にきてくれた人とコミュニケーションがあまりない作品だったんですよ。
たとえばギャラリーで展示していて、美術とかに関係ない人がたまたまふらっと入ってきたときに
「これは犬がうつっているんですか?」って聞いてくるんです。で、「あ、これはゴミ置き場なんです」
「えっ?!」とか。すごく単純な会話が成り立ったりして。
わからないっていうのがはっきりしているから、わからない、っていえる。
コラージュのときはわからないっていえない状態だったんだな、って思って。
モノがはっきりうつっていると、それが見えているから、構図とかめちゃめちゃで何でこうやっているかわからない、
そういっていいのに、それが思いつかないで帰っちゃうような感じだったのかなと。
それはそれで私的には面白かったんですけど、でも、もっと絞りこめるのかなと思って。
ぼんやりすることで、わからないってことがはっきりしてくる。
誰がみてもわからないのが明らかになるから、「わからない」って、言っていい状況ができる。
そうすると、すごく気が楽になる、のかなと。
ぼんやりしていることが、実は大事なのかなって。
ぼんやりしている、ということだけは、自分ははっきり言えるひとつのことなのかな、と。
コラージュのときはわからないっていえない状態だったんだな、って思って。
モノがはっきりうつっていると、それが見えているから、構図とかめちゃめちゃで何でこうやっているかわからない、
そういっていいのに、それが思いつかないで帰っちゃうような感じだったのかなと。
それはそれで私的には面白かったんですけど、でも、もっと絞りこめるのかなと思って。
誰がみてもわからないのが明らかになるから、「わからない」って、言っていい状況ができる。
そうすると、すごく気が楽になる、のかなと。
ぼんやりしていることが、実は大事なのかなって。
ぼんやりしている、ということだけは、自分ははっきり言えるひとつのことなのかな、と。
たとえば椅子が映っていても、知らなければ椅子だとみえなくて
これはお花ですか、と聞いたりすることもできるし
でも、実は椅子を写したんですよといってもいいし、お花ですよ、といっちゃてもよくて。
椅子でもお花でも正解がないというか、その人がそう思ったらそれでいいというか。
ほんとうのことを知ったから、どうだ、ってことでもない。
これだったら続けられるかな、と。
( つづく。)